
大正時代から昭和初期にかけて、石油から合成してできる合成酢が製造されるようになり、安価な合成酢に押されるようにして、壺酢は衰退を見せ始めました。またそれに追い打ちをかけるように、1940年代には太平洋戦争が起こり、米の統制が行われたため、原料の米の入手が途絶えてしまいました。
福山各所に建ち並んでいた醸造所も次々と廃業や転業を余儀なくされました。そのような苦難の時代にあっても坂元醸造の坂元海蔵だけは、原料を米から芋に変えることにより壺酢づくりの技術を守り続けていました。
しかし、やはり時代の波には逆らえず、坂元海蔵は自分の代で壺酢づくりを廃業することを決め、息子の坂元昭夫には別の道を歩ませることを決意しました。