二百年続いた製法を今もこれからも

くろずの品質は醸造技師が注ぐ愛情によって守られています。

時代の荒波を乗り越えた

大正から昭和初期にかけて、石油から合成してできる氷酢酸をうすめた合成酢が製造されるようになり、安価な合成酢に押されるようにして、くろずは衰退を見せ始めました。またそれに追い討ちをかけるように起こった、戦争による米不足。くろずの原料である米が手に入りづらくなると福山各所に立ち並んでいた醸造所は次々と転業を余儀なくされ、徐々に福山でくろずが造られなくなるようになりました。そんな中、現会長の父、先代の坂元海蔵は原料をサツマイモに代えてくろずの壺づくりの製法を守り続けたのです。
  • くろずの製法を守った坂元海蔵。

くろずの機能性に気づく

 そして残り一軒になり、時代の波には逆らえず、坂元海蔵は自分の代で壺酢造りを廃業することを決め、息子の坂元昭夫(現会長)には、「後を継ぐな」と言いました。「俺の代で辞めるから」と。その言葉に従い、坂元昭夫は九州大学医学部薬学科へ進み、後に鹿児島に戻り国立病院の隣に薬局を開業しました。父が造ったくろずを薬局に並べ、病院の患者さんに飲用を勧めたところ、五十肩や慢性肝炎など今まで治らなかった病気がよくなったという声が多数寄せられるようになり、坂元昭夫はくろずが持つ秘められた力に気づきました。それから、大学時代の友人に依頼し、くろずに含まれる成分を調べたところ、普通のお酢よりもアミノ酸やペプチドが多く含まれている結果が報告され、いよいよ本格的にくろずづくりを再開することになったのです。その後、坂元家が代々守り造り続けてきたくろずのよさが口コミで伝わり、さまざまな研究機関でくろずの研究が行われ、健康食品としてのくろずの認知度が高まっていきました。坂元昭夫が“家業を継がなかった”ことが、結果的にくろずの機能性に気づくきっかけを作り、家業を発展させることにつながりました。
  • 2年間の熟成させた人気の「くろず薩摩」。

「くろず」の誕生

 福山で壺を使ったくろず造りが始まったころはもちろんですが、40年ほど前まで、“くろず”は“くろず”とは呼ばれていませんでした。福山酢や壺酢、天然米酢などさまざまな呼び名がありました。
 1975年(昭和50年)、坂元昭夫がくろずの機能性を研究していただいている方々と大阪のあるホテルで会っていました。そこでの夕食をとりながらの談笑中に、この福山で造られるお酢に名前をつけようという話になりました。そして、「くろず(黒酢)」という名が生まれたのです。一般のお酢より、色が濃く壺の中で熟成させるほど色が濃くなるという、壺づくりのお酢の特徴から名づけられました。
 その後、数多くの公的機関や大学等と研究を積極的に行い、医学、薬学、農学的見地からさまざまな研究結果が報告され、くろずの持つ力が注目されると、くろずという名前が一気に全国に広がっていきました。

五十年後も百年後も

 江戸時代後期から現代に至るまで、坂元醸造はくろずの伝統製法を頑なに守り続けています。くろずの発酵熟成には、太陽エネルギーが利用され、化石燃料は一切使用しませんし、くろずの発酵過程にできるもろみも健康素材として利用できます。環境保護がさけばれる今日では、壺づくりの“坂元のくろず”は、人だけではなく環境にもやさしいスローフードとして注目されています。
 時折、くろずをご愛飲いただいているお客様から、うれしい声をいただきます。しかし、大きくなっているくろずの需要に対して「機械化して大量生産」ということはできません。どれだけ時代が進んでも、この壺を使って、ここ福山でじっくり時間をかけて造っていくしかないのです。私たちは、壺畑を少しずつ広げていきながら、お客様の声に誠実にお答えしていきたいと考えています。壺が増えると、増えた分だけ醸造技師が必要となります。醸造技師の育成も私たちの大切な務めなのです。二百年続いた製法を受け継ぎ、五十年後も百年後も、くろずが今と同じように造られるよう、正しく継承していきたいと私たちは考えています。