⒈福山町の恵み 福山町の長い歴史と共に、
よい水、よい風土で育つ

宮浦宮夫婦イチョウ
福山の夫婦イチョウ

「壺畑」と並ぶ福山町のシンボルである夫婦イチョウは樹齢1000年を超えております。

そんな歴史ある福山町で、江戸時代後期(1800年頃)から壺を使った米酢造りが始まりました。

坂元醸造もこの時期に米酢造りを始め、現在も伝統製法を守り続けています。 

福山町の恵み
商業港として栄えていた福山港                        
  • 気候風土

    福山町は、三方を丘に囲まれ、南方は海。
    そのため冬は暖かくて霜が降ることは稀で、夏も海からの風で比較的涼しく、年間を通して温暖な気候です。

  • この一帯は約29,000年前にできた姶良カルデラ壁で、中腹には豊富な地下水が蓄えられています。
    薩摩藩時代この水は、「廻(めぐり)の水」と呼ばれ、藩内随一の名水として折り紙つきのものでした。

  • 江戸時代の福山町は交通の要衝で、福山港は米の集散地。
    薩摩藩への上納米は、大隅半島から全てこの地に集積され、船で鹿児島方面へ運ばれていました。

  • 藩内には「薩摩焼」として知られる窯元があり、黒酢造りになくてはならない「壺」が身近にありました。

発酵に適した気候風土を持ち合わせ、
黒酢造りに必要な「地下水」「米」「壺」が揃った場所が、
「福山町」だったのです。

⒉守り続けた製法 廃業の荒波に抗い、
伝統を継承するために知恵を絞る

守り続けた製法
4代目 坂元海蔵

大正から昭和初期にかけて、石油から合成してできる氷酢酸をうすめた合成酢が製造されるようになり、安価な合成酢に押されるようにして、黒酢は衰退を見せ始めました。
またそれに追い討ちをかけるように起こった、戦争による米不足。
黒酢の原料である米が手に入りづらくなると福山各所に立ち並んでいた醸造所は次々と転業を余儀なくされ、徐々に福山町で黒酢が造られなくなるようになりました。
そんな中、4代目坂元海蔵は原料をサツマイモに代えて黒酢の壺づくりの製法を守り続けたのです。

くろず発祥の地
くろず発祥の地

時代の波には逆らえず、4代目坂元海蔵は自分の代で壺酢造りを廃業することを決め息子に「俺の代で辞めるから後を継ぐな」と言いました。
その言葉に従い、息子の坂元昭夫は九州大学医学部薬学科へ進み、後に鹿児島に戻り国立病院の隣に薬局を開業しました。
父が造った黒酢を薬局に並べ、病院の患者さんに飲用を勧めたところ、体調が良いとの声を多数聞き、坂元昭夫は黒酢が持つ秘められた力に気づきました。
それから、大学の友人に依頼し、黒酢に含まれる成分を調べたところ、一般のお酢よりもアミノ酸やペプチドが多く含まれている結果が報告され、黒酢造りの再興を決意します。
その後、坂元家が代々守り造り続けてきた黒酢のよさが口コミで伝わり、さまざまな研究機関で黒酢の研究が行われ、健康食品としての黒酢の認知度が高まっていきました。

⒊「くろず」の命名 まだ見ぬ価値に気づき、光を浴びせ、
名前を授ける

「くろず」の命名
熟成年数による色の違い(左から半年、1年、3年)

福山町で壺を使った黒酢造りが始まったころはもちろんですが、50年ほど前まで、“くろず”とは呼ばれておらず、福山酢や壺酢・天然米酢などさまざまな呼び名がありました。
1975年(昭和50年)、5代目坂元昭夫が黒酢の機能性を研究していただいている方々との研究会の中でこの福山町で造られるお酢に名前をつけようという話になりました。
一般のお酢より色が濃く、壺の中で熟成させるほど色が濃くなるという、壺造りのお酢の特徴から「くろず(黒酢)」と命名しました。
その後、数多くの公的機関や大学等と研究を積極的に行い、医学、薬学、農学的見地からさまざまな研究結果が報告され、黒酢の持つ力が注目されると「くろず」という名前が一気に全国に広がっていきました。